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​ひめごと2022 上演によせて

劇団大樹 主宰 川野誠一

この「ひめごと」の劇団初演は2008年。今は亡き納谷六朗氏が峠役として出演して下さり、鎮の如く座をまとめ、物語に深みを与えてくれた思い出深い作品です。当時から狂言の世界に身を置いていた僕は、この物語の登場人物たちの在り方に「能楽」のような関係性と精神性を感じ取り、舞台セットも必然的に「能舞台」をイメージしたものに成りました。そのイメージは、より舞台美術としての精度を練り上げ、今回も踏襲するつもりです。

 

大沢未散の生き様は、まるで禅問答のようでもあり、能舞台で一人孤独に舞を舞うシテ方のようです。そしてシテツレの如く黙して未散の傍に在る、二階の住人、峠。母親が秘める想いを、娘として現実の視点から見つめながらも、その想いを労わるかの如く未来へと受け止めていく大沢翠の生き方はワキ方のよう。そして久美のモノローグは、間狂言の如く状況にブレーキをかけつつ淡々と劇進行を繋ぎ止めて行く。特筆すべきは、自身のルーツを探るべく登場する、ルポライター真木森生の存在です。未散と峠の目には、藤崎信(40年前に失踪した真木の父親)の生霊のようにも映ったであろう彼の存在を、対立する全体の関係の中で考えた時、この一軒家が、どこか俗世間から隔離された「能舞台」のようにも感じてしまうのです。そういう劇構図である事が、最後まで明かされる事のない「ひめごと」を上質のミステリーに仕上げ、正に能楽の如く内面への集中と、無限の想像の余地を提供してくれているように思います。そして、その物言わぬメッセージから、生きていく事は真剣勝負なのだと強烈に意識させられ、ふと自身の生き様を内観させられるのです。

 

これまで劇団大樹は、み群杏子さんの戯曲を9本上演して参りました。「大人のメルヘン」とも呼べる詩情あふれる世界観は彼女の戯曲の特徴ですが、この「ひめごと」だけは匂いが違う… とても文学的な匂いを感じます。み群さんが、この戯曲を執筆した際にインスピレーションを得た小説があると聞きました。太宰治の「斜陽」。小説の中にこんなやり取りがあります。母親が娘に「恋人がいるの?」と聞き、娘が「お母様、人間にだけあって、他の生き物にないもの、何だかご存じ? それはね、ひめごとと言うものよ」。そう、この「ひめごと」は、人間そのものの物語なのです。み群さんの作品には、猫にしろ、幽霊にしろ、ふたつの世界を行ったり来たりする存在が登場し、ある種の寓話的な要素によって物語が形作られていることが多いのですが、この「ひめごと」に登場するのは今を生きている人間だけです。多くの作品に見られる寓話的な要素はありません。人間を通して人間を見ている。僕はそこにある種の私小説のような文学的な匂いを感じるのです。

 

今回の「ひめごと」再演に当たり、み群杏子さんと京都でお会いし、ひとつの加筆提案をしました。物語の核となる男、藤崎信という人物に「在日朝鮮人」という要素が加えられないかと… 実は、僕の周りには在日の2~3世の芸能者が多くいます。そういう方たち共に作品を創って行く過程の中で、在日と呼ばれる皆さんが、現在でも抱えている差別や価値観の相違、この日本での生き辛さを知りました。藤崎信という人物をただ霞の先に置くのではなく、こういう要素をそっと加えることで、彼が抱えていたであろう苦悩や悲哀、姿を消した理由にもうひとつ想像の余地が生まれるのではないかと思ったのです。そんな話を、み群さんにしたところ、み群さんの元に送られて来た一枚の絵葉書のエピソードをお話して下さいました。届いたのは、友人が対馬の展望台から撮影したらしい朝鮮半島の写真。そこには対馬が数少ない群生地のひとつである「ヒトツバタゴ」の花が写っていたそうです。この写真を見て、み群さんはその友人が在日朝鮮人であったことを知ったそうなのです。僕の話を聞き、み群さんはこのエピソードがうまく使えるのではないかと加筆に取り掛かって下さいました。今回、劇団大樹で再演する「ひめごと」は、新たな要素が加筆された台本となります。

 

現代人は他者との関わりの中で「単独者」であるよりも、頑なに集団の一員、つまり「群れ」であろうとしているように感じます。それは他者と自分との違いを極度に恐れている表れではないでしょうか。自分が自分らしく在る事よりも、相対的に「こうありたい、こうでなければ」という、生き方考え方をする人が多くなって来ているように思うのです。「多チャンネル化」という言葉にも象徴されるように、場面ごとに自分を最適化していき、何となく他者に付き合ってしまう。かと思えばネット上では、会った事もない人間に、真剣に恋の悩みを打ち明けたりする。それは、その場その場で、他者と感覚を共有しないと関係性を維持しづらい、空気を読めなければ自分が孤立してしまうという恐れから、本来、付き合わなくてもいい相手とまで付き合ってしまっている現実があるのではないでしょうか。これが悪いという事ではなく、それ程までに他者とのコミュニケーションが繊細になって来ているという事です。この背景にはスマホやSNSの普及が影響している事は言うまでもありません。群れながらも人と距離を置く事が当たり前という、心身分裂社会となりつつあるのです。

 

そういう影響からでしょうか、現代人は「自己肯定力」がとても衰えて来ているように感じます。自分に素直に生きるという事は、とても大きな孤独を抱える事になるかも知れません。僕も我が強く譲らない性格なので、孤独を感じる事もしばしばです。しかし「孤独」とは、他者と違う自分の生き方を肯定する勇気を持つ事だと僕は思うのです。そして人が生きるエネルギーとは、他者の意見に左右されず、在りのままの自分を肯定した時の方が、より強いパワーを生み出すように僕は思うのです。誰よりも自分を肯定できるのは、他ならぬ自分自身の筈です。誰が信じなくとも自分だけは自分の生き方を信じよう、自分の生き方を真っ当しよう。僕はこの「ひめごと」という作品から、そういう人の強さをあらためて教えられたように思うのです。どこか孤独である事から生まれる逞しさを登場人物たちに感じるのです。この作品から現代に発信できるメッセージは決して小さくはないと感じます。このような作品を、今この時代に、発信することの意味や意義はきっとある。そう演劇人として強く思うのです。

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